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感想ってなんだろ

同人活動

 

 感想は欲しいと言ってもらうものなのだろうか。

 

 感想。このご時世に二次創作同人なんかしていると、結構頻繁にこの話題が目に入る。感想ください、感想ありがとうございます、感想、感想、感想……。

 

 そして、きっとそんなことないのだろうけど、体感的には月1くらいの頻度で、感想は伝えた方が良いみたいな話題がどこからともなく回ってくる。発信者や細部は異なるけれど、感想は伝えた方が良い⇒でも勇気がない⇒一言でもいいんだよみたいな経過を飽きることなく辿り、結局感想や作品への好意は作者に伝えた方が良いぞみたいなところで落ち着いているやつだ。

 

 確かにと思う。自己満足の二次創作とはいえ瞬き一つで出来上がる物語、イラスト、文章なんてないのだし、リアクションがあれば嬉しく、なければ虚しくなるのは普通のことだと思う。一方で、思うところがあってもそれを伝えられないという受け手の主張ももちろん分かる。文字だけで誤解なく自分の感動を伝えるのは非常に難しいし、時間もかかる。作品の傾向が複雑なほどそれは増すから、作りこまれた物語ほど、作者へのアプローチは困難に感じられるかと思う。

 

 いやうん、わかる、わかるんだけど、この手の話題がちょこちょこ湧く度にもやもやするのは私だけだろうか。私の性格が悪いからか。でもちょっと考えて妙なもやもやをどうにかしたいと思う。

 

 感想どうのこうのの話にもやもやするのは、”感想は伝えた方が良い”という共通認識だけが独り歩きしているような気がするからではなかろうか。

 

 まず、”感想は伝えた方が良い”と発信されたとき、そうだよねそうだよねと共感を示してみせるのは誰か。これは書き手側ではないか。要は感想が欲しいのだ。わかるわかる、欲しいよね。かいたものに反応全くないと全否定されてるような気持ちになっちゃうよね。こんなのにときめくのは自分だけか~とか、技量が無さすぎて伝わってないか~ってなるよね。自分は物凄くときめいてる分孤独がすごいよね。

 

 では読む側がこれを受けて積極的に行動に移しているのかというと、よく見かけるのは、伝えきれないから行動に移すのにためらいがある、というような意見だ。わかる、わかる、ときめきが大きいほど伝えきれなくて諦めちゃうことあるよね。こんな素敵な話をかく人、自分なんかが応援しなくても大丈夫だろみたいな気持ちにすらなるよねわかるよ。本当にヤバい時はツイッターにも呟かず自室で拝み倒すに尽きるよね。

 

 凄い温度差……。

 

 出す側と受ける側の温度差がひどい、で片づければいいじゃん、って感じですけれども。

 

 しかし、二次創作する人のほとんどは、出す側と受ける側両方の立場にいるんですよね。

 

 プロとファンの間には与える人、受け取る人の明確な授受の線引きがある。しかし二次創作はちょっとちがう。かきたいと読みたいを併発しているから、〇〇が好きな人、という大きな枠の中に平等に入っている。

 

 感想についてもこれは同じで、書く人と読む人は完全に分離しているわけではない。(私も底辺ながら活動していますが同時に読み手でもあるので感想を送ることはしばしばします。)しかし感想欲しい、という人が皆、感想を送る人だったら、この世界はもう感想に溢れているはずである。感想送った方がいいよ~なんてツイートが小さくバズる日々を繰り返すことなどないはずである。

 

 要するに、みんな欲しがるだけ欲しがって自分が送るとかしないのではないか。伝えきれない、語彙がない、勇気がないって言ってさ。自分の話は面白いから感想送られるべきだけど、ほかの人の話は面白くないから感想送る価値内無い、と思っている人は滅多にいないとは思うけれども。しかしやっぱり、送ったとしても送りやすい相手を、一言でも伝わるくらい気心の知れた相手を選ぶくらいのことはしているのではないか。でもそれは普通の事だとも思う。

 

 実際、買って買われての間柄でも、私が一方的に興奮した感想を送りつけ、相手からは特にコメント無し!なんてことも普通にある。ごめんねつまんなくてね……これはひとえに私の力量不足によるものです。

 

 

 

 まぁでも、素敵な作品と出合って胸がときめいたからと言って、必ずしも感想を送ることができるわけではないというのも確かだ。というか本が素敵なほど伝えるのに時間かかる。まず、本当に好きだとSNSからのアプローチが失礼なような気がする。ツイッターはおろかピクシブさえ失礼な気がする。できれば手書きの手紙を渡したいとか思う。自分の感動の強さを軽く見積もられるのさえ嫌になる。しかし手書きの手紙どうやって渡すの?イベント?じゃぁ次のイベントまでに感想をしたためて……って締め切りあるじゃんやば……とりあえずそれ先にやろ……アッ宅配搬入……値札……とかやってるうちに前日深夜、最早当日、とかになってしまうこともあるのではなかろうか。まぁ計画性が無いと言われればそれまでであるけども、そう、計画しないといけないくらいに、感想って大仕事になることがある。

 

 こうやってチャンスを失って、本が発行されて半年も経ってしまうと、今更伝えるのもなぁなんて気持ちになって、伝えるのを諦めてしまうこともある。

 

 しかも感想を伝えることって好きな人に嫌われるリスクさえ伴っている(と伝える側は恐れていることがある)し、自分の一筆が励ましになるなんて夢にも思わない(と伝える側は必要以上に卑屈になっていることもある)から、伝えることによる分かりやすいメリットって実は少ない。

 

 

 最初、「”感想は伝えた方が良い”という共通認識だけが独り歩きしているような気がする」と言った。別に”感想は必ず伝えろ”と言っているわけではないし、事実なんだから独り歩きしてても良いじゃん、と思われるだろう。私も書きながら別に良いじゃんって思った。

 

 しかしやっぱり、独り歩きしてほしくない。

 

 最近、”感想は伝えた方が良い”という共通認識によって、好きな作家さんが”感想欲しい”みたいなことを言うと、あ、伝えなきゃ、と思う人もいらっしゃると思う。あと、”私伝えてます!”アピールなども散見されるようになってきた。

 

  

 例えば、Cさんはタイムラインで好きな作家さんが感想を欲しているのを見た。とても好きなので、伝えたいと思う。しかしうまく言葉にならないし、ほかの人が続々と感想を伝えて作家さんは喜んで嬉しそうである。お友達も才能のある人で、仲良く楽しそうにしている。自分の言葉がなんになるだろう、かえって水を差すかもしれない、しかし伝えないと興味がないと思われるかもしれない。(書きながらこいつ卑屈すぎない?と自分でも思うが、自分に自信のない人間は陥りがちな思考回路だと思う。)なんて思うと、感想を伝えられない自分を責めかねない。

 

 例えば、”私伝えてます!好きなイラストにはファボもリツイートもします”みたいなことをAさんが言ったとしよう。ツイッターでね。すると、Aさんとは相互フォローだけれど、ファボもリツイートもされないBさんは、(あぁ、Aさんは私に興味がねぇんだな)と思うだろう。興味ないことが事実ならなんでAさんはBさんをフォローしてんのやということになる。自分に関心のない人を好きでいるのはつらく難しい。BさんがAさんのこと好きだったならもっとつらい。でもこれが誤解で、AさんはBさんの人柄がめっちゃ好きとか、ファボはしてないけどイラストは楽しみにしてるとかそういうこともあるかもしれない。Bさんは自分を好きでいてくれる人を疑うことをやむなくされるし、Aさんは知らず好きな人を傷つけている形になる……というのは考えすぎだろうか。

 

 ごちゃごちゃとわめきたてたが、なんというか、感想がなんだか、義務みたいになっている気がするのだ。

 

 感想が欲しくてやっているなら正面から感想を欲しがるのも正しい在り方だけど、そうじゃない人の方が多いのではないかと思う。

 

 感想は感動の副産物みたいなもので、そして感動というのは、感じたその人にしか抱えられないものだと思う。だからそれを伝えきれないことを責めたくは無い。

 

 当たり前のことだけれど、感想は、書く側、伝える側のものであると思う。そりゃもちろん感想なんて欲しいのが本音だけれど、これは他人の金で焼肉が食べたいとか、アラブの石油王から10億円もらいたいとか、極端だけどそういう欲に近いような気がする。別になくても困りはしない。二次創作って原作読んでブワッとした結果だし、物語ってその人の伝えたい考えや見て見たい景色が詰まっているものだと思っているから(そうでない人もいるみたいだけど)感想が無ければかけない絵や話って、じゃぁ何が伝えたかったの、何が見たかったの、ってなってしまうし。

 

 感想が送れなくてへこむ時間、感想がもらえなくて腐る時間、自分が経験しているからこそ、もったいないなぁと改めて思う。感想もらえるような話書いて、素敵な作品を見つけたらできるだけ感想送ろうなんて、グダグダ言って結局、そんな月並みな決意で終わる日記でした。

 

 

 

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二次創作バブルを感じる

 バブル景気という言葉を知らない人は少ないと思う。けれどもこれ経済用語で、なんかちょっと難しい。バブルっつーのはまぁそのまま泡のことで、泡って膨らんだら弾けて消えちゃう。シャボン玉も屋根まで飛んだら弾けて消えるし、人魚も海の泡になって消える。じゃあそのバブルに景気がつくってどういうことかというと、金銭的な、お金に変えられる価値が泡みたいにふくらんで消えちゃうということ。極端な話にすると、昨日まで100万円だったものの価値が一日で100円になっちゃうみたいな。
 じゃぁ100万円のものが100円に”値下がりしちゃった”のかというと、それはちょっと違う。物の価値が下がったわけじゃない。これまた極端に言うと、もともと100円なのに、みんなが100万円だと思いこんでた。
 その魔法が解けて、なんだこれ100円じゃないか!って気がついてしまった、これがバブル崩壊
 経済はもうめちゃくちゃ苦手なので、これ以上の話はできないのだけれど、なんでじゃぁそのめちくちゃ苦手な経済の話をぐだぐだしたかというと、こういうことが、二次創作でも起こっているような、気が、する。
 

 ツイッターとかいろんなブログとかインターネットの波に乗って遊んでいると、二次創作の現場も随分変わったなって思う。そこまで経験値高いほうじゃないけれど、ペイントソフトとペンタブレットなんて敷居が高くて、おえかきBBSにマウスで絵を描いていたような時期からその流れにずっと乗ってここまで来ました。
 ツイッターもpixivもなかったころは、インターネット上に自分の描いた絵、書いた文章を公開するのだけでも大変だった。もちろんスマートフォンもない。家にパソコンがなければ何もできない。見ることすらできなかった。
 だから、作品を公開する人には、結構な熱量が必要だったような気がする。HPをつくろうとしたら、HTMLで最初からデザイン考えて配置してバナー作って、もちろん作品も増やしていかなくちゃいけない。でもぎゃくに言えば、それができる人しか作品公開ってしてなかった。
 そして、飽きたらぱぱっと消えてしまえるくらいには、つながりは希薄というか、提供する側と閲覧する側には大きな溝があった。


 二次創作の現場がSNSに移って、同じものが好きな人同士のつながりが強くなったことを、悪いことだとは思わない。
 作品公開に必要な熱量が少なくなった。省エネ。低燃費。エコ。だからみんなが作る側になった。これも悪いことではない。そして、作品が増える。これだって別に、悪いことではない。
 
 ただ、現場がSNSになって、良かった部分と同じだけ、怖いな、とおもうことがある。

 

 リツイート、いいね、お気に入り、点数評価、フォロー数、フォロワー数、いろいろなものが、数として、誰にでも見えるところに表示されてしまうという妙なプレッシャー。そして、その数の、公平性に欠けること。
 SNSを使ってジャンルに所属すると、ヒエラルキーが見えてくる。フォロワー、リツイート、いいね、お気に入りの数が作るピラミッドだ。
 でも、このピラミッドを、支配しているのは誰だろう。上層にいるのは、フォローされる、リツイートされる、いいねされる、お気に入りされる、圧倒的被評価者だ。評価者はどこにいる?ピラミッドは下に行くほど広くなる。大きなその数字を作っているのは、描かない人、書かない人なのではないか。ねじれてはいないだろうか。
 SNSは交流を促進する代わりに、そこに評価を持ってきてしまった。しかしその評価にはルールも基準もない。ウィキペディアなんかを読むと、評価には、”評価の方法””評価者”に”信用性”がなければそれは成立しない、なんて書いてある。
 じゃぁ、ツイッターやpixivの色々なボタンに、その”信用性”はあるのか。
 もちろん、点数が入れば嬉しい。リツイートしてもらえれば嬉しい。お気に入りも、いいねも嬉しい。それは間違いないし、ボタンを押す側に悪意があることの方が稀だとは思う。だから、そのアプローチに価値がないとは思わない。勇気あるお気に入りだってあるはずだ。心からのいいねだってあるはずだ。それは信じた方がいい。
 ただ、その数の差に、傷ついてやる意味はあるのだろうか。踊らされてやる価値は、あるのだろうか。

 

 誤解されやすい環境の中で繋がって、そのつながりにストレスを感じても、相互関係が強くなって、簡単に関係を絶てないことも怖さがある。
 HPを自分の城に例えるならば、ツイッターやpixivのアカウントは、もうルームシェアだ。〇〇さんの××ではなく、××の〇〇さん。そうすると、みんな仲良くはしやすくなる分、プライバシーだとか、考え方の自由とか、かなり制限されてくる。誰かを傷つけたくて創作をする人なんていないから、周りに目があれば、その目が気になるのは当たり前だ。
 才能や能力はあるのに、SNSで思うような注目を集められなくて、自分の作品の価値を疑ってしまう人がいる。逆に、注目を集めすぎて、自分のやりたいこと、言いたいこと、描きたいものをうまく表現できない人もいる。
 そして、求められるのが嬉しくて、自分の好き嫌いというよりは、沢山の人に受け入れられやすい作品を選ぶ人もいるのかもしれない。
 そして、ルームシェアだから、一緒に生活する人にかなり影響されてしまう。
 好きなものが増えるのは、それは良いこと。でも、これが低燃費な創作活動と重なって、そして、関係の絶てないSNSの、いろいろな数字からくるプレッシャーとも重なるとどうなるか。
 自分の好きなものではなく、みんなの好きなものを描く、書くマシーンになってしまわない?じゃぁみんなの好きなものって何?
 評価が欲しい、皆に見てほしいという気持ちは大切だと思う。その気持ちが、絵を描く原動力にも、文章を考える力にもなる。流行にケチをつけて、何もしない人より、流行の流れに乗って何かしている人の方がよっぽど立派だ。

 ただ、二次創作をするということは、原作から何かを感じているはずで、二次創作をするということは、何か主張したいこと、私はこんなものが好きなんだ、っていう抑えがたい気持ちがあるんじゃないか。少なくとも、輪郭のはっきりしない”誰か”のためやることではない。

 

 SNSでいろいろな距離が縮まって、そして評価みたいな場面が多くなった。みんなが作る側になれる土俵だけが出来上がって、後ろ盾も根拠もない数字が膨らんでいるような気がする。

 あなたは何を描きたい、書きたい人ですか。